他力本願の誤解

他力本願というと、他人をあてにして自分では何の努力もしないこと、という意味で使われている事が多いようです。

確かに親鸞上人も、自らの修行の力ではなく阿弥陀如来の本願の力によって成仏がなされる、というような意味で使っていたようです。
字面だけみると、現在の誤用も仕方がないような気がしますが、親鸞の本意はそこにはなかったようです。

研究者によると、親鸞は「できる限りの修行は自分で行なわなければならない、しかしその後のことは阿弥陀如来の力に任せなさい。」という主旨で述べていたとのこと。
スピリチュアリズムの言い回しにすると「3次元の中でできる限りの努力は自分がしなければならないのです。そしてその結果についてはスピリットガイド、因果律に委ねなさい。」というふうになるでしょう。

親鸞の頃も、近現代も、「自らの努力」ということは抜けていないのです。

他界にいるスピリットガイドが、三次元の事を何でも段取りできる訳ではありません。
口を開けてさえいれば、スピリットガイドが食事を入れてくれる訳ではないのです。
まずは自分が浄化の努力をせねば…。

時々「スピリットガイドに委ねる」という事を、勘違いされている方をお見受けします。
そういう方に限って、思い通りにならない事に腹を立てていらっしゃいます。
他力本願とは、一生懸命努力した者だけが到達できる、一種の悟りの境地といえるでしょう。

誤用の他力本願ではなく、真の意味の他力本願ができるようになると、心が平和になるのですが…。


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