自己愛、執着

(「Ego」からつづく)

もう一つ、エゴの要素として、「自己愛」と呼ばれるものがあります。
読んで字のごとく、自分自身を愛することです。
「自分を愛せないものは他人を愛せない」と言われることがありますが、確かにある程度自分自身を慈しむ気持ちがないと、他人にもそういう気持ちは持てないものです。
これはいい意味での自己愛と言えるでしょう。

ここでは自分自身を愛する気持ちの程度や状態を問題とします。
自己愛が強くなりすぎると昨今では「自己愛性パーソナリティ障害」という疾患として扱われてしまいますが、そこまで酷くならないにしても、人は「自分がいい思いをしたい」「自分は一番でいたい」「自分は間違っていない」というような気持ちは誰しもが少なからず持っているものです。
こういった気持ちは偏見や無知から生じることが多く、周囲との関係性に対立を生み出しますので、悪い意味での自己愛と言えます。

エゴのもう一つの要素として「執着」があります。
種の保存欲求を満足させるため、あるいは(悪い意味の)自己愛を充足させるために私たちは様々なものに執着をしています。
物、金、財産、名誉、地位、評判といった比較的わかりやすいものから、特定の人物、家族、友人、故郷、地域、国、会社、職業などのなかなか本人が気づきにくいもの、そして趣味、嗜好、思想、信仰、教義などの個人のアイデンティティに及ぶものまで、私たちは知らず知らずのうちにたくさんの事柄に執着しています。
上座部仏教においては、これらの執着を離れることこそが最大の修行の目的といっても過言ではありません、それだけ執着は根が深いのです。

種の保存欲求、自己愛、執着は、良心からの働きかけを堰き止めてしまう壁となってしまいます。
エゴの壁は、良心の体現者になるためにはどうしても乗り越えなければならない壁なのです。

次に、良心の実態について俯瞰してみましょう。

(つづく…)

Ego

(「良心」からつづく)

しかしながら、これを達成するためには、たいていの人は長い道のりを歩まねばなりません。
なぜなら、私たち人間は Ego(エゴ)と呼ばれるものを持っているからです。
心理学者のフロイトはエゴ(自我意識)と名をつけましたが、仏教では煩悩、キリスト教では原罪と名付けられているものとほぼ同じと考えて構わないと思います。

エゴとはなんでしょう、前述した心の中の会話を思い浮かべてみてください。
愛と叡智に溢れ善を行なうように働きかけてくる良心と話し合っているもの、カウンターパートあるいは対立軸とも呼べるもの、それがエゴです。
「頭(心の中)ではわかっているんだけど、なかなかできない」というような言い訳を私たちは頻繁にしますが、こういう良心からの働きかけをストップしてしまっているもの、それがエゴなのです。
良心から流れてくる愛、叡智、善といったものに対して、エゴは憎しみ、偏見、悪を持って、その前に立ちはだかります。

さて、エゴの内容をもう少し掘り下げてみましょう。
私たち人間は、猿類から進化したと言われているホモ・サピエンスの体を使っています。
動物界の頂点と言われるホモ・サピエンスとて動物ですから、どうしても「種の保存欲求」というものが存在していて、自分の体を維持したり守ったりするため、そして同族の繁栄や繁殖のためにオートマチックに働いてしまう「本能」が存在します。
種の保存欲求(本能)のままに人間が振る舞ったとしたら、人間と動物の区別がつかなくなってしまいます。
そのような社会は愛、叡智、善といった高尚なものからかけ離れたものとなってしまうことは明白でしょう。
この「種の保存欲求」はエゴの一つの要素であります。

もう一つ、エゴの要素として、「自己愛」と呼ばれるものがあります。

(つづく…)