自己愛、執着

(「Ego」からつづく)

もう一つ、エゴの要素として、「自己愛」と呼ばれるものがあります。
読んで字のごとく、自分自身を愛することです。
「自分を愛せないものは他人を愛せない」と言われることがありますが、確かにある程度自分自身を慈しむ気持ちがないと、他人にもそういう気持ちは持てないものです。
これはいい意味での自己愛と言えるでしょう。

ここでは自分自身を愛する気持ちの程度や状態を問題とします。
自己愛が強くなりすぎると昨今では「自己愛性パーソナリティ障害」という疾患として扱われてしまいますが、そこまで酷くならないにしても、人は「自分がいい思いをしたい」「自分は一番でいたい」「自分は間違っていない」というような気持ちは誰しもが少なからず持っているものです。
こういった気持ちは偏見や無知から生じることが多く、周囲との関係性に対立を生み出しますので、悪い意味での自己愛と言えます。

エゴのもう一つの要素として「執着」があります。
種の保存欲求を満足させるため、あるいは(悪い意味の)自己愛を充足させるために私たちは様々なものに執着をしています。
物、金、財産、名誉、地位、評判といった比較的わかりやすいものから、特定の人物、家族、友人、故郷、地域、国、会社、職業などのなかなか本人が気づきにくいもの、そして趣味、嗜好、思想、信仰、教義などの個人のアイデンティティに及ぶものまで、私たちは知らず知らずのうちにたくさんの事柄に執着しています。
上座部仏教においては、これらの執着を離れることこそが最大の修行の目的といっても過言ではありません、それだけ執着は根が深いのです。

種の保存欲求、自己愛、執着は、良心からの働きかけを堰き止めてしまう壁となってしまいます。
エゴの壁は、良心の体現者になるためにはどうしても乗り越えなければならない壁なのです。

次に、良心の実態について俯瞰してみましょう。

(つづく…)

何を食べたら良い?

クライアント様や受講者様から様々な質問を受けますが、その中でも「食べ物」に関するテーマは結構な頻度で尋ねられます。
肉体の健康のため、精神的な健康のため、霊的な健康のため、と質問される方は様々なレベルで質問を投げかけてきます。
私は医療系の免許を持っておりますが、食の専門家ではないので、あくまでも自分の体験や医学的文献からの引用で答えざるを得ませんが、私なりに一定の見解を持っています。
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儚い…

イタリア中部でマグネチュード6.2の大地震が発生し、多くの被害が出ている模様です。
あの周辺は昨年訪れたばかりですので、勝手に親近感を持っていて、様子が気になります。
被害に遭われた方のご冥福と、一日も早い復旧をお祈りしております。

日本では、そのイタリア地震の報道に隠れてしまっていますが、同じ日にミャンマー北部でマグネチュード6.4のこれまた大地震が発生しています。
人口密集地ではないので被害者の数はイタリアの比ではありませんが、現地の知人によると貴重な遺跡群にも被害が出ているとのことです。
ちょうど2週間ほど前にミャンマーを訪れ、バガン遺跡群に感動して帰ってきたばかりです。
その時に見た寺院も被害を受けたようで、美しかった姿が無惨にも崩壊している写真を見ました。

子供の頃、毎年夏になると遊びに行っていた陸前高田市の高田松原海岸は、5年前の大津波で跡形もなくなってしまったことは皆さんご存知かと思います。
数キロにわたる砂浜と松林の美しさは私の生存中に取り戻すことは物理的に不可能でしょう。

さらに2年前に初めて九州に旅行をした時の最初の訪問地、熊本城に南阿蘇村…、ここも今春の群発地震で大きな被害を受けていて、いまだに復旧の目処がたっていません。

思い出の地がこうも次々と地震で被害を受け、その在りし日の姿が変わってしまっているという現実を見ると、地球という生き物のとてつもない力、そして物事の儚さを感じずにいられません。
人間なんてちっぽけな存在なのに、自然や時間に抗って自分の存在を誇示しようともがいている様に見えてしまいます。

儚いという字はまさしく人の夢。
この人生は何度も繰り返す再生の旅のほんの一瞬立ち寄っただけで、あらゆるものは流転し儚い…。

と同時にこの時代に生まれてくるのも今回が最後ですので、この時代を楽しむ気持ちは大切だと思います。
しかしながら物理世界の限界をわきまえてそれに執着しないということは、もっと大切な事の様に思います。

実際に直接的な被害に遭われている方々にとっては、こんな感傷的な話は空想家の戯言に聞こえるかもしれませんが…、あえて。
各被災地の復興復旧をお祈りしております。

 

12.AUG.2016 スラマニ寺院@バガン
From 7day news journal
24.AUG.2016
by Myo Min Thu

遊戯三昧

遊戯三昧。
禅の言葉です。
何か楽しいことを探し求めるのではなく、今やっていることを楽しむこと、という意味です。

「自分探し」という言葉に、居心地の悪さを感じるのは私だけでしょうか。
何か、今とは違うおとぎの国に自分の居場所があるかのような響きを感じてしまいます。
今や現実を受け入れられないような弱い心で、新しい何かに対応できるのでしょうか?

国や土地や両親、すべて自分で選んで生まれてきています。
そして目の前にある、好ましいことも好ましくないことも、過去生からのそして今生の積み重ねの結果がそこにあるだけ。

好ましいことでも、好ましくないことでも、与えられた環境の今をまずは楽しもう。
不足や不満があれば、それを改善する努力をしよう。
そしてその努力や苦労までも楽しんでしまえば良い。

遊戯三昧。
霊的な光を当ててみると、またひとつ深みが増します。