自己愛、執着

(「Ego」からつづく)

もう一つ、エゴの要素として、「自己愛」と呼ばれるものがあります。
読んで字のごとく、自分自身を愛することです。
「自分を愛せないものは他人を愛せない」と言われることがありますが、確かにある程度自分自身を慈しむ気持ちがないと、他人にもそういう気持ちは持てないものです。
これはいい意味での自己愛と言えるでしょう。

ここでは自分自身を愛する気持ちの程度や状態を問題とします。
自己愛が強くなりすぎると昨今では「自己愛性パーソナリティ障害」という疾患として扱われてしまいますが、そこまで酷くならないにしても、人は「自分がいい思いをしたい」「自分は一番でいたい」「自分は間違っていない」というような気持ちは誰しもが少なからず持っているものです。
こういった気持ちは偏見や無知から生じることが多く、周囲との関係性に対立を生み出しますので、悪い意味での自己愛と言えます。

エゴのもう一つの要素として「執着」があります。
種の保存欲求を満足させるため、あるいは(悪い意味の)自己愛を充足させるために私たちは様々なものに執着をしています。
物、金、財産、名誉、地位、評判といった比較的わかりやすいものから、特定の人物、家族、友人、故郷、地域、国、会社、職業などのなかなか本人が気づきにくいもの、そして趣味、嗜好、思想、信仰、教義などの個人のアイデンティティに及ぶものまで、私たちは知らず知らずのうちにたくさんの事柄に執着しています。
上座部仏教においては、これらの執着を離れることこそが最大の修行の目的といっても過言ではありません、それだけ執着は根が深いのです。

種の保存欲求、自己愛、執着は、良心からの働きかけを堰き止めてしまう壁となってしまいます。
エゴの壁は、良心の体現者になるためにはどうしても乗り越えなければならない壁なのです。

次に、良心の実態について俯瞰してみましょう。

(つづく…)

何を食べたら良い?

クライアント様や受講者様から様々な質問を受けますが、その中でも「食べ物」に関するテーマは結構な頻度で尋ねられます。
肉体の健康のため、精神的な健康のため、霊的な健康のため、と質問される方は様々なレベルで質問を投げかけてきます。
私は医療系の免許を持っておりますが、食の専門家ではないので、あくまでも自分の体験や医学的文献からの引用で答えざるを得ませんが、私なりに一定の見解を持っています。
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人脈は財産?

先月に携帯電話が故障したエピソードの続きです。

新しいスマホがやってきて、さて旧スマホからアドレス帳を移行しようと思い、USBでパソコンに繋いでみたのですが、液晶が壊れているために全く操作ができず、断念。
色々調べてみたところ、携帯キャリアのショップに行けば、クラウドを介してデータの移行ができるような記述を発見したのですが…。

実は私、携帯キャリアのショップ嫌いなのです。
その昔、自分たちのインセンティブ優先で、客の利益や利便性などはお構い無しの営業を何度かされているうちに嫌気がさし、足が遠のいてしまいました。

機種変更などはもっぱらオンラインショップで済ませ、店頭には手続き上どうしても必要な時以外は行かないようにしています。
今回も意地でも自分で何とかしようという気持ちがメラメラと沸き上がってきました。

が、結局の所、データ移行は個人では無理だということがわかり、あらためて考え直しました。
旧スマホに入っているデータは、あちこちのアドレスデータや、紙ベースの資料に入っているものなので、一件一件手打ちで入れていけば何とか復旧できそうです。
でもその膨大な作業量を考えると腰が引けてしまいます。

で思いついたのが、今現在本当に必要な人の情報を、その必要な時に入力していこうということでした。
そうすれば無理がないし、自分自身の交遊関係のアップデートにもなります。

やってみたら、今の所アドレス帳には20人位分のデータしかありません。
思い返せば、古いデータには、過去に一度しか使ったことのないお店やら、何年か前に1、2度メールのやり取りをしただけの人、 音信不通でそのデータが現在も正しいのかどうかわからない人などの情報を後生大切にとってあったのでした。
しかしこうやって整理してみると、とてもすっきりとし心が清々しくなります。
ここでも知らないうちに色々と溜め込んでいたことを反省です…。

三次元レベルでの発想では「人脈は財産」といわれ、ネットワーキングミーティングやら何とか交流会などが盛況です。
以前の私もそういう考え方に洗脳されていて、昔は良くそういう会合に参加していました。
しかし実際の所は、居心地の悪さと虚無感ばかりが残っていたものでした。

たとえ少数だったとしても、本当に理解し合える方と、ただ一緒に場所や時間を共有することの方が、自分の心が平和になり充足感を味わえることを体験したこと、更に自分にとって必要な人は必要な時季にちゃんと現れることを識ってからは、頑張って人脈を広げようという意識は無くなりました。
見方を変えると、以前の私は、現世利益にとらわれて人間関係への執着から離れられなかったのです。

今回の携帯電話の故障は、再び「執着の芽が出てきたぞ」という事を私に教えてくれる教訓だったようです。
執着から離れるということは、モノだけのことを言っているのでは無いですね。

携帯電話の無い生活

先月の始め、革ケースに入れていたスマートフォンがケースから滑り落ち、液晶にヒビが入ってしまいました。
落ちた所はカーペットを敷いた床だったのですが、意外とダメージが大きかったらしく、その後液晶画面が全く使い物にならなくなってしまいました。

修理に出すにも時間とお金がかかるようでしたので、思い切って機種変更をすることに。
が、注文したものが人気機種だったため、手にするまでに3週間以上も待つ羽目に…。
おかげで約18年ぶりに携帯電話の無い生活を味わうことができました。

もともとヘビーユーザーではないので、電話の送受信に関しては意外と不便は感じませんでしたが、困ったのはメールです。
仕事用のメアドに受信があってもスマホですぐに確認できないため、一日に何度もパソコンを立ち上げてはチェックしなければならなかったこと、さらに早めの返信ができなかったせいでクライアント様にご迷惑をかけてしまったことがネガな部分でした。
ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。

僧侶で作家の小池龍之介氏は、昨年末に携帯電話とパソコンを手放したとのこと。
電話は有線電話で事足りるし、パソコンがどうしても必要な時はネットカフェに出向くそうです。
そんな環境でも生活に特段の支障は無いし、何より心の安寧の時間が増えたことが最も良いことだと述べています。

私が携帯電話の無い生活を送ったのは、たった3週間あまりのことでしたが、自分自身の人との関わり方や、情報産業との関わり方を見つめなおす良い機会となった3週間でした。
知らず知らずのうちに余計なものを一杯抱え込んでいました。
もっともっとシンプルにならなくては…。
小池氏の気持ちがちょっぴり理解できた経験でもありました。

とはいえ、世間一般の生活にITが染み渡ってきているので、一つの機械の故障が自分ひとりで完結しなくなってしまっていますね。
時代は変わりました…。