理性

(「叡智」からつづく)

理性とは良心から流れてくる叡智を受け止める能力です。
叡智を受け止めるには、理解する力、学び取る力、善悪を判断する力といったものが必要です。
ですから理性を育むには、これら理解力、学習力、判断力といったもの、それにある程度の知識が必要なのです。
これらの力を総合的に知力と称することにします。

一般に、知力は小学生から高校生位までの知識欲旺盛な学齢期にもっとも育まれます。
大人になってからでもある程度は育まれますが、学齢期には適いません。
言葉の意味がわからない、論理立てて理解することができない、知識がない、というようなことでは叡智のわずか数パーセントも受け止めることもできないのです。
この学齢期にしっかりと知力を養っておかないと、理性が育まれず、ひいては善悪の判断にも支障が出てきてしまうのです。
学校教育については様々な意見があるものの、基本的な考え方として、やはりこの時期には勉学にしっかりと向き合える環境を子供たちに整えてあげるのが大人たちの責任と言えるでしょう。

人には優しく…、言葉遣いは丁寧に…、助け合いましょう…、慈善をしましょう…、こういった行為はとても価値のあるものです。
これらの行為が、誰かに勧められた単なる善行の実践としてではなく、その方が熟慮し、良心と話し合った上で行われるとしたら、そこには叡智に導かれた愛が伴っています。
つまり、その行為が形式的なものではなく、本人がその理性を使って叡智を受け止めた結果として行為が行われるのであれば、その行為はまさに良心を体現している、愛を実践していると言えるのです。

理性、そしてそれを育む知力は、愛を伴った善の実践のためには必要不可欠なものなのです。

(つづく…)

盂蘭盆会に想う / 寛容

今年もお盆の時期がやってまいりました。
多くの日本人の御多分に洩れず、私も故郷に帰省して、近親者やら、生前に会ったこともない(笑)親戚やらの墓参りをしております。

もちろんお墓にその方たちがいらっしゃらないことは百も承知していますし、お墓が単なる物質的な記念碑であるということも理解しています。
私が今世を去った時には、残した人たちに迷惑を掛けたくないので、お墓も要らないし骨は散骨か、もしくは遺体の段階で献体して欲しいと思っているくらいです。

まあお盆という行事をがあるおかげで、連続して休暇が取れるわけですし、また旧知の方とこの時期に再会することができたりしているのですから、宗教的な意味合いは横に置いておいても、まあ有難い事と思っていたら良いのではないかと…
このように長年に渡って慣習的に続いているという事実は、人々が経済社会生活を営む上で何かしらの恩恵をもたらしてきたという証だとも思いますし…

霊界の真実を知るようになると、既存宗教の欺瞞やら迷信性に敏感になりますので、慣習的に行われている宗教的行事や行為を目の敵にして、徹底的に排除しようと試みようとする時期があります。
しかしながらこういった盲信性は、自分とは異質なモノに対して「自分は正しくあなたは間違っている」という未熟な意識から生まれる事が多いので注意しなければなりません。

私はキリスト教徒でもありませんが、イエスはまずは隣人愛を実践しなさいと教えました。
隣人愛という視点から見たら、自分とは異質なモノを理解するという事がその方の愛をより高めるために必要な第一歩です。

日常の生活においても、自分とは異質な人や事象に遭遇すると不愉快な気持ちになる事が多々あります。
そんな時、異質なモノを好きになれとか迎合しろということではなく、理解しようと努力することが大切です。
理解できれば受け入れる事ができるようになり、受け入れる事が寛容を育みます。
寛容は高次の愛の大切な一面です。

どの宗教でも、原初は霊界の実在を伝えるところから始まっているはずなのです。
日本人は宗教的なものには寛容な国民性ではありますが、こういった機会に宗教的慣習の背景にある本当の意味を洞察する事も必要かもしれませんね。

Gift ~天賦の才~

Gift 、それは神からのあずかりもの

自分のためではなく、他人のために…
心配ではなく、慰めを
不安ではなく、激励を
臆病ではなく、勇気を
算段ではなく、真理を
争いではなく、調和を
恐怖ではなく、畏敬をもたらすためのもの

この世のためだけではなく、大いなる吾らの故郷のために…
愛という利子をつけて、やがて再び神に返すもの

赦し

様々な人間関係の中で生かされている私達。
時には嫌な目にあったり、非難されたり、攻撃されたりすることがあります。

成長した意識体は、そのようなことがあったとしても因果律に帰して内観し、時間がかかっても最後には相手を赦すことができるものです。

さて、赦すとは何でしょう?
それはその相手と仲良くなろうとしたり、施しを与えたりするようなことではありません。
表面的にそのようなことができたとしても、意識が本当に赦していなければ赦したことにはならないのです。

人間関係上や社会上、その相手とは距離をとらざるを得なくなる場合もあるでしょう。
また我々不完全な人間である以上、その相手を嫌う感情は消せないかもしれません。
そんな状況の中においても、相手のことを思ったり考えたりしても心にさざ波が立たなくなり、相手の成長や幸せをそっと祈ることができるようになった時、やっと赦したことになるのです。