無条件の愛

(「自己愛、執着」からつづく)

次に、良心の実態について俯瞰してみましょう。
良心は愛と叡智に溢れ善を行うように働きかけてくると、先に述べました。
まずは愛を取り上げてみます。

私たち人間はホモ・サピエンスの体を借りているので、本能と同じく動物的な愛も初めから持ち合わせています。
動物的な愛とは、子を守り育もうとする愛、同族の仲間と調和しようとする愛、繁殖のために必要な雌雄間の愛などです。
これらの愛は同族の個体数を維持しさらに増やす働きをしますから、結果として同族を外敵から守り、ひいては自分の命を守る事に繋がります。
個体数を維持し、増加させようとする行動は本能に組み込まれているといっても良いでしょう。

これら動物にもある愛を人間に当てはめて考えると、愛情、友情、恋愛といったものになりますが、人間がこういった類いの愛しか持ち合わせていなかったとしたら、動物と人間の間には別段の違いはないことになります。

私たち人間は、動物と違って家族や同族を超越した存在である「社会、国家」を形成し、様々に違ったタイプの方々との調和を求められます。
ですから、そこで必要とされる愛は動物でも持っている本能的な愛とは質が異なります。
その愛とは、本能的な愛という言葉に対して、理性的な愛と表現したら良いでしょう。

私たち人間は心の中で対話する時、良心からの理性的な愛を感じながら対話しています。
高尚な判断をしようとすればするほど、そこには家族や同族といったような限定は存在しなくなり、見返りすらも求めようとしなくなります。
限定や見返りを求める気持ちは、エゴが行なっていることなのです。
無条件で無償であること、これが良心から流れてくる愛の本質です。

また、理性的であるということは、そこには客観的にしかも冷徹に物事を観察して判断するという要素が入ってきます。

(つづく…)

好きな人嫌いな人

誰にでも好き嫌いはあるものです。
日常生活で様々な人達と関わって生きなければならない私たちにとって、人の好き嫌いは避けがたい現実です。

宗教的な教えによると、全人類を愛しましょうとか、あなたの敵を愛しなさいというようなフレーズをよく耳にします。
しかしながら、現実問題としてみると、好きな人を愛することは簡単なことですが、嫌いな人までを愛することはなかなかの至難の技です。

またこれも自分勝手な話しですが、自分には嫌いな人がいるくせに、自分が他人から嫌われることは絶対に避けたいと思うのも人情です。
他人から嫌われないことに過敏になるあまりに、気を使っては自ら消耗をし、人間関係の混沌の中に揉まれながら、心の休まらない日々を過ごしている方が多いのではないでしょうか。

「相手は自らの鏡」という言葉があります。
自分の身の回りの人間関係からは様々な教訓を学ぶことができるということです。
特に苦手な人や嫌いな人については、その相手の毛嫌いしている部分が、実は自分にも内在していることが多いようです。
自分にある自分の嫌な部分を、相手の中にも見つけてしまうことで、心が過敏に反応して相手を嫌ってしまうのです。
苦手な相手、嫌いな相手は自らの鏡だと悟ると、意外とその相手を赦すことができてしまうものです。

好き嫌いは人の常。
嫌いなものを好きになれとは言いません。
それよりも、好き嫌いはあるものだし、自分にも嫌いなものがあり嫌いな人がいる、という現実をしっかり受け止めた方が建設的ですね。

「嫌いな人=赦せない人」は自らにもノーを突きつけているようなもの。
心が成熟してくると、必ずしも嫌い=赦せないではなくなってくるものです。
そして「人から嫌われないようにする」から「人を嫌わないようにする」という心境にも到達できることでしょう。

盂蘭盆会に想う / 寛容

今年もお盆の時期がやってまいりました。
多くの日本人の御多分に洩れず、私も故郷に帰省して、近親者やら、生前に会ったこともない(笑)親戚やらの墓参りをしております。

もちろんお墓にその方たちがいらっしゃらないことは百も承知していますし、お墓が単なる物質的な記念碑であるということも理解しています。
私が今世を去った時には、残した人たちに迷惑を掛けたくないので、お墓も要らないし骨は散骨か、もしくは遺体の段階で献体して欲しいと思っているくらいです。

まあお盆という行事をがあるおかげで、連続して休暇が取れるわけですし、また旧知の方とこの時期に再会することができたりしているのですから、宗教的な意味合いは横に置いておいても、まあ有難い事と思っていたら良いのではないかと…
このように長年に渡って慣習的に続いているという事実は、人々が経済社会生活を営む上で何かしらの恩恵をもたらしてきたという証だとも思いますし…

霊界の真実を知るようになると、既存宗教の欺瞞やら迷信性に敏感になりますので、慣習的に行われている宗教的行事や行為を目の敵にして、徹底的に排除しようと試みようとする時期があります。
しかしながらこういった盲信性は、自分とは異質なモノに対して「自分は正しくあなたは間違っている」という未熟な意識から生まれる事が多いので注意しなければなりません。

私はキリスト教徒でもありませんが、イエスはまずは隣人愛を実践しなさいと教えました。
隣人愛という視点から見たら、自分とは異質なモノを理解するという事がその方の愛をより高めるために必要な第一歩です。

日常の生活においても、自分とは異質な人や事象に遭遇すると不愉快な気持ちになる事が多々あります。
そんな時、異質なモノを好きになれとか迎合しろということではなく、理解しようと努力することが大切です。
理解できれば受け入れる事ができるようになり、受け入れる事が寛容を育みます。
寛容は高次の愛の大切な一面です。

どの宗教でも、原初は霊界の実在を伝えるところから始まっているはずなのです。
日本人は宗教的なものには寛容な国民性ではありますが、こういった機会に宗教的慣習の背景にある本当の意味を洞察する事も必要かもしれませんね。

赦し

様々な人間関係の中で生かされている私達。
時には嫌な目にあったり、非難されたり、攻撃されたりすることがあります。

成長した意識体は、そのようなことがあったとしても因果律に帰して内観し、時間がかかっても最後には相手を赦すことができるものです。

さて、赦すとは何でしょう?
それはその相手と仲良くなろうとしたり、施しを与えたりするようなことではありません。
表面的にそのようなことができたとしても、意識が本当に赦していなければ赦したことにはならないのです。

人間関係上や社会上、その相手とは距離をとらざるを得なくなる場合もあるでしょう。
また我々不完全な人間である以上、その相手を嫌う感情は消せないかもしれません。
そんな状況の中においても、相手のことを思ったり考えたりしても心にさざ波が立たなくなり、相手の成長や幸せをそっと祈ることができるようになった時、やっと赦したことになるのです。

ともし火

東日本大震災から1週間が経過しました。

私の故郷の町では、ライフラインは復旧したようですが、ガソリン不足のために移動や生活サービスの提供に影響が出ているとの事。
日常を取り戻すにはもう少し時間が必要のようです。

その故郷の町で、電気も水道も復旧していない震災2日後に、大手のコンビニやスーパーが閉店していた中、地元の小さな食品スーパーがすでに営業を始めていたそうです。
おそらく独自のルートで仕入れたであろう新鮮な野菜や米なども並べられ、そのお店で働くご婦人方はテキパキと明るく仕事をされていたとのことです。

その様子を目の当たりにしたある方は、「勇気をもらった…」「ひと時災害のことを忘れることができた…」ととても感謝していらっしゃいました。

スーパーの経営者や従業員の方も同じように被災され、個人的にはそれぞれ色々な思いがあったとは思います。
しかしそれらを乗り越えて、何とか地域の方のために役に立とうという心意気が伝わってくる話でした。

このご婦人方のように、困っている方の、あるいは大変なときにこそ、その方の心のともし火になれる存在になりたいと願っています。
マッチ売りの少女がマッチの火の中にひと時の幸せを見出したように…。