諦観

私たちは、明日起こるであろうことを予想して、準備をしたり、対策を講じたり、心構えしたりすることができます。

ですが、その予想もしばしば外れたり、修正を余儀なくされることはみなさん経験済みのことと思います。

また、あまりにも事細かに決めすぎると、反比例的に後の修正が厄介なものになってしまうこともご存知でしょう。 “諦観” の続きを読む

「悟る」ということ

仏教を信じ、その道を極めようとする方にとっては、「悟りを開く」という事が重大な意味を持つようです。

一応仏教国の一つと言われているこの国に住む私たち日本人にとっても、「悟りを開く」という言葉には、神秘的で、高尚、かつ得難い境地を連想させるに充分な響きがあります。 “「悟る」ということ” の続きを読む

ペットの不調と元気がない観葉植物

生活と心に少しでも潤いを…、と考えて部屋に観葉植物を置いてみたものの、なかなか育ってくれず間も無く枯れてしまったというお話をよくうかがいます。

かつての私自身もそうでした。

あの植物はダメだったから、この種類なら良いかな?、この植物は育てやすいようだから今度こそ…、なんて色々試行錯誤した時期がありましたが、結局何本も枯らしてしまっていました。
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霊性退化?

おかげさまをもちまして、近年は各地でワークショップを催させていただいております。
取りまとめにご尽力くださっている皆様、ご受講くださっている皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。

性別、年齢、職業を問わず、実に多様な方達がお集まりくださり、熱心にご受講いただいています。
ご受講されていらっしゃる方々プラスその方を応援している方々の熱気で会場が本当に暑くなることもしばしばあります。

そんなご受講者の中にこんな告白をなさる方が時々いらっしゃいます。

「永いこと勉強させていただいているつもりなんですが、あまり自分が成長している実感がわかないんです…、というより、あれっ?自分は逆に退化しているんじゃないかと思うくらいなんです…」と。

霊的真理を学び、謙虚にそれを受け止めて自分自身の評価に使うようになると、このような感覚になるときがあります。
これはその方が退化しているわけではなくて、それまでとは違った尺度、観点で自分自身を見つめ始めたことにより、自分自身を見る目が厳しくなった結果として起こることです。

生半可な知識でわかったような気になっている時ほど、気づかぬうちに高慢な気持ちが芽生えていき、自分自身を見る目が甘くなっていくものです。
自分に自信を持つことは大切なことではありますが、その自信には常に高慢さが諸刃の剣となって潜んでいることを忘れてはいけません。
進化しているつもりが実は退化していたなんてことになりかねません。

一方、謙虚な人ほど、先に述べたように自分を厳しく評価します。
決して退化しているわけではなく、その方は謙虚さという徳を得たと言えるでしょう。

聖書にこのような一節があります「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。(マタイによる福音書18章3、4)」

自分を低くするとは、謙虚さや慎ましさの事を指します。
自分自身を見つめる目を厳しくした結果として退化しているように感じている時ほど、その方は霊性が進化していると言えるのではないでしょうか。